「キツネにタヌキを討たせ、そのキツネをサルに討たせる」これが本能寺の変の真実である

本能寺の変の前後の歴史は太田牛一の『信長公記』に頼らざるを得ないが、編集を命じた豊臣秀吉に都合がよいように改変されている。それに気づかず表面をなぞっていたのでは真実にはたどり着けない。この度『かくて本能寺の変は起これり』を電子出版した。謎を解いてしまうと多くの作家がああでもないこうでもないと、想定し放題の小説を書くことが難しくなるけれど、論理的に歴史を見れば真実は浮かび上がって来るように思う。まずはご一読を戴きたい。概要をアマゾンで紹介する文を以下に示す。

(紹介文)

本能寺の変の本当の原因や状況がどういうものであったかは謎の部分が多い。その理由は資料が少ないことにある。太田牛一が羽柴秀吉の命を受けてまとめ上げた『信長公記』が主たる資料なのである。何故か。本能寺の変の前夜信長は主要な公家たちも招いて大茶会を開いたのだが、その公家たちの日記はその部分が削除されていると聞く。つまり本能寺の変について語るのは憚られることだったのである。ということは逆に、伝わり、流布するものが真実ではないということなのである。

かつて会社員時代、『信長公記』15巻のコピーを作り、社内の古文書研究会でそれを教材にして解読を”指導”していたこともあり、それはなじみの深いものだった。信長の天下取りには武田攻めが必要だった。その武田攻めに明智光秀はわずかの供回りだけで参加、軍勢の帯同を許されなかった。武田方への寝返りを懸念されていたのである。武田を打倒した帰りに信長は徳川領をほとんどすべて見て回っている。それは信長が駿遠三の徳川領への侵攻を計画していることの証拠である。

武田なき後、日本国内に敵対する大勢力はいなくなった。しかし信長は天下人を目指していた。その天下の中に徳川領三か国が独立して存在することなど許されないことなのである。すでに有力外様大名の荒木村重を謀略によって敵対させ、滅ぼしていた。残るは大大名の明智光秀とこの徳川家康だけなのである。

この二人を滅ぼす方法を信長は考えた。それは「キツネにタヌキを討たせ、討ったキツネをサルに討たせる」という方法だった。

その具体化第一弾が、安土に来訪した家康を明智光秀が饗応時に毒殺するとの計略である。陰謀を察知した両者は逆に手を結び、反信長の盟約を結ぶ。明智光秀の重臣斎藤内蔵助に家康手ずから脇差を与え、馬を与えたりしている。意味するところは明智光秀の家臣ともども家康の家臣になったということだ。

毒殺失敗に信長は次の方策を準備する。兵を伴わず挨拶に安土に出向いただけの家康をそのまま京見物に誘うのである。信長自らも京で、茶会を催すと言って安心させる。そしてその裏で、毒殺に失敗した明智光秀に今度は京に滞在中の家康を討てと命ずるのだ。

その企みを読み切った家康と光秀は、逆にその機を利用して、茶会名目で兵を伴わぬ信長を本能寺に襲う計画を立てる。そして直前に家康は堺見物のためと称して京を去るのである。

光秀の軍勢1万3千人。旧本能寺の周りの道なども実際に見聞したが、そのような大人数は配置しようがない。本能寺の襲撃は斎藤内蔵助率いる3千人で行われた。もとより明智の軍勢を京に呼び入れたのは信長自身である。勿論目的は家康を殺すことにあった。まさか信長を討つ明智軍に変化していることなど知らぬ本能寺は警戒をしていなかったし、明智の軍勢を見ても何ら不思議には思わなかった。これが、あの慎重かつ抜かりのない信長がやすやすと滅ぼされた理由であろう。

さて、家康は帰国するやすぐに軍勢を率いて京に上り光秀と共に天下を掌握する計画であったのだが、秀吉の中国多返しによる“にわかの”弔い合戦により間に合わなくなる。従来秀吉の中国大返しは、驚異的などと言われるが、もともと『キツネにタヌキを討たせ、討ったキツネをサルに討たせる」ことになっていたのだから、秀吉は、徳川家康を明智光秀が討ったらすかさず明智光秀に襲い掛かる準備をしていたのである。

秀吉が討つ相手は変わらなかったが、キツネはタヌキを討たずに、天下様信長を討ってしまったのである。その幸運に身震いしながら、秀吉は天下人になったのである。

大坂夏の陣を経て天下を掌握した家康は、斎藤内蔵助の娘お福を、無理やり離縁させ、そばに置き、子を作る。それが家光である。わが身を殺そうとした信長の血筋を絶やし、国松を廃して家光を将軍にすることで、命の恩人斎藤内蔵助に報いたのだ、いや、光秀との盟約を果たそうとしたのだと思われる。

信長の京での宿所は本能寺である。なぜ本能寺なのか。実は本能寺はなんと種子島に末寺を持つのである。戦国の武力は火薬の保有量で決まったともいえる。信長は堺を抑えるとともに本能寺系の火薬ルートを抑えていたとみて良いだろう。

太田牛一は『信長公記』を書いたが、それは厳しく秀吉にチェックされたはずだ。というより秀吉に都合の良いように書き換えさせられていたと考えるべきである。しかし、そういう立場になった時、何らかの方法で、それは違うよ、とのサインを残したりするものである。明智光秀が発句を詠んだ愛宕山の連歌が意味深である。発句は有名な、

  時は今 天が下知る 五月かな

である。それに驚いた西の坊が、

  水上まさる 庭のまつ山

と脇を詠む。深読みを加えれば、「水上まさる」は「琵琶湖の北の方が強いですぞ」、「庭のまつ」は「丹羽(惟住)五郎左衛門が待つ」、すなわち、…琵琶湖の奥と言う水上にいる強い丹羽殿が待ち受けているのでは…と注意したような句と解せないわけではない。

第三句は紹巴が詠んだ。

花落つる 流れの末を 関とめて

…花が落ちてしまう(命を落とす)水の流れの末をせき止めれば…ということで「この流れは止めた方がよい」といっているように取れるが、これも深読みすれば、…流れ(河)の末を関とめて備中高松城を水攻めにしている羽柴筑前守秀吉によって命を落とすのでは…と忠告しているようにも取れる。

『信長公記」の作者太田牛一の苦心の結果である可能性が強い。

なお、最後に徳川家康の堺入りに関しての日記の記述を一つ示そう。

(宇野主水日記)

 徳川堺見物トシテ入津。穴山同前。其晩ハ宮内法印にておほつきの振舞あり。

この宇野主水日記の記載が興味深い。「徳川堺見物トシテ入津」と言うところは「徳川家康が表向き堺見物と称して堺に入った」と言っている様である。本当は見物に来たのではなく京で襲われるのを避け、逃れてきたのを知っていたかのような記述だ。

実際に他の茶人の日記を見ても、家康が堺見物などしたようには見えないのである。

事実は小説より奇なり。大河ドラマなどとの違いを味わってほしい。

 


コメント
コメントする








   

calendar

S M T W T F S
      1
2345678
9101112131415
16171819202122
23242526272829
3031     
<< August 2020 >>

にほんブログ村

selected entries

archives

recent comment

  • 園翁自伝(石油資源開発時代回顧録)(88)人事考課を書き換えさせた石油資源開発人事部
    名無し (10/15)
  • 国際石油開発帝石(インペックス)は経営行き詰まりなのか?それを暗示する現象(2)
    名無し (08/20)
  • 園翁自伝(石油資源開発時代回顧録)(132)ホテル代の踏み倒し
    No use (07/25)
  • 論理の誤り―纏向遺跡と桃の実の年代
    No use (07/24)
  • (続)石油資源開発の新役員布陣が発表されたが―身体検査は大丈夫か?
    No use (07/24)
  • 『人麻呂の暗号と偽史『日本書紀』〜萬葉集といろは歌に込められた呪いの言葉〜』を電子出版化した
    ふひと (07/11)
  • 国際石油開発帝石のイクシスプロジェクトは「大失敗」?!
    高松 和弘 (06/27)
  • 起きる確率の高い南海トラフ地震の被害額が1,400兆円以上と言うなら
    toshi (06/14)
  • 決裁文書の事後改竄は単なる文書管理の問題ではない
    giinnokoe (06/01)
  • (続)石油資源開発の新役員布陣が発表されたが―身体検査は大丈夫か?
    名無し (05/28)

links

profile

search this site.

others

mobile

qrcode

powered

無料ブログ作成サービス JUGEM