『太安万侶の暗号(二)〜神は我に祟らんとするか〜』の電子出版をした

かつて紙印刷として郁朋社から出版した著作の電子出版化を進めてきているが、この度『太安万侶の暗号(二)〜神は我に祟らんとするか〜』の電子出版を「Arakahi Books」としてアマゾン(キンドル)で行った。以下にその紹介文を載せておくのでご一読願いたい。教科書に載っている「官製歴史」とは異なる歴史に触れていただければと思う。

 

縄文時代中期の海進期のピークが過ぎ、プロト本州とも呼べる地域以外の西南日本にも平野部が出現してきていた。それまでのプロト本州は東北、関東、中部地方より構成される、照葉樹林帯地域であった。その西縁は伊吹山地、養老山地、鈴鹿山脈、和泉山脈であったのである。この山地・山脈には後にも飛鳥浄御原朝辺りから関が置かれ、東国(日の本の国)との国境とされた部分なのである。それらの産地・山脈の西側には、淡海(琵琶湖)、巨椋池、大和湖、河内湖といういわば大きな水垣が存在した。そして現在の中国地方も含めて四国、九州などの大小の島が西側に存在する状況だった。

その西側の地域が、『古事記』に「国生み」で生じた「倭国」の領域なのである。そこを治めるために東北多賀の都からニギハヤヒが派遣された。これが『日本書記』での壮大な偽史と言える天孫降臨のモデルである。

忘れてはならないのが日の本の国を構成していた縄文人は「神から与えられたもので生活する」との宗教的な伝統(起きて)から作毛をしなかったことだ。プロト本州は照葉樹林帯に属し、サケの遡上もあり縄文人に対する人口支持力が高かったが、西南日本の島はそのような環境ではなく、生存できる人口は限られていた。

そこで倭国政権は大陸からの稲作の導入を図る。そして作毛に従事する労働力の確保の観点から朝鮮半島からの渡来人の導入を図った。その間百済とも係争があり、出兵、占領も経験し、百済から王子を人質にとることが続くようになる。

或る時オオビコが百済の王子を倭国の王にしてしまう。それが崇神天皇であり、その名を「イ・ニェ」と言った。

『日本書紀』にも記述されているように天照大神(個人名ではなく、王の職名)はニギハヤヒ(饒速日)の降臨に際し、剣と鏡を授け、「同床・同殿」を命じた。崇神天皇は異国人であったため宮中にあった剣鏡との同床・同殿に祟られ、耐えきれず、ついに王たるべきものが持つべき剣と鏡を宮から追い出してしまった。(現代にいたるまで天照由来の神器は天皇のもとにはないだけでなく、内容も異なっている。さらに天皇の即位も長い間即位灌頂という仏教式で行われてきたのである)

この神器は諸国をめぐった後、伊勢の滝原宮に落ち着く。しかしその祟りはものすごく、疫病が発生して国民の半数が死亡するなどの猛威を振るう。たまらず、垂仁天皇(名は「イ・サチ」)は剣と鏡を伊勢に大神宮を建設して奉斎することにした。しかし神宮建設のノウハウを持たぬために、既に敵対関係となっていたかつての宗主国である日の本の国の天照大神に技術支援を願い出る。

そして作り上げたのが伊勢神宮だった。伊勢神宮を概観すれば、山を背にし、いすゞ川に囲まれた位置に建設されている。後世東北の民をとらえて押し込めた居留地である別所・院地と似たセッティングであることが重要である。つまり祟り社として建設されているのである。『橋のない川』の名前が示すのと同じで、もともと伊勢神宮には五十鈴川を渡る橋がかけられていなかった。わずかに飛び石があっただけだったのである。そして天皇が参拝するのは明治政府になってからのことで、日本の皇室は伊勢神宮の参拝などしてきてなどいない。祟りを恐れての奉斎をしてきたのである。

これらの時代の動き、流れを描いたのが本書である。そしてこの伊勢神宮の建設が卑弥呼の誕生と活躍に重要な影響をもたらすのだがそれは次巻に詳述されている。つまり「邪馬台国」の真実に大きく関係する。遠からず電子化もするのでしばらくお待ち願いたい。

尚、紙印刷版(郁朋社版)のシリーズで本巻の「あらすじ」を載せている。簡単なものだが、参考のために以下に引用しておく。

(引用)

ニギハヤヒがエビス尊となって巻向で大和以西の政治を行い始めた。それに伴いヨミの尊となったニギハヤヒの次男、天の香語山の尊はヨミの国の都を月の山(月山)から越の国の弥彦山に遷した。  ニギハヤヒの長男、ウマシマデはエビス尊となり西南日本の経営に専心した。その頃、大陸での度重なる戦乱と王朝の盛衰により多量の難民が各地に移動した。半島も例外ではなく、そういう難民の流入が大陸周辺に不安定さをもたらしていた。その影響で筑紫の島にも半島からの渡来人が増えていた。  これらに対応するために兵を増やそうにも食糧の不足が問題だった。そこでエビス尊マデはその子ユキヒコを沖の倭の島(沖縄)、高砂の島(台湾)を経て大陸のアモイにまで水穂(水稲)を得るべく派遣した。  持ち帰った水穂(水稲)は吉備の国を中心に栽培が進められた。  その頃半島の百済のものがたびたび筑紫の島に近づくなど不穏な情勢になった。エビス尊マデは多賀のアテルヒの神に日高見軍の派遣を依頼し百済に攻め込む。そして百済を平定し、水穂(水稲)を分け与えるとともに百済人の吉備の国への移住を図った。なぜなら縄文時代以来作毛をしないのが不文律だったので、水穂(水稲)の栽培という作毛には外国人の利用が不可欠だったからである。  百済からは王子を人質に取った。そしてその王子にはアテルヒの神の血をひく娘を妃として与えた。しかし王子はやがて王位を継ぐために百済に戻っていく。そのことで百済の王子の妃のなり手がいなくなった。  オオビコは娘を説得するために、自分がなるべきだったエビス尊の位を無理やり百済の王子のイニェにつがせた。このときから大倭は多賀のアテルヒの神、つまり日の本の国からの離反を志向する。  実は天孫降臨、つまりニギハヤヒが最初に多賀から大和に下った時に同床同殿の神勅を受けた神鏡があった。しかしイニェは百済の血をひくものだったので、神鏡はイニェを認めずイニェを夜毎に苦しめた。ついに耐えられなくなったイニェは神鏡を笠縫村に移し、傍らにはそのレプリカをつくって置くことにした。(すなわち今に伝わる三種の神器というのはこのときのレプリカである。もっとも神剣は壇ノ浦で安徳帝とともに海に沈んだから、ないはずだが)  エビス尊イニェはその子イサチに笠縫村の神鏡を然るべく祀るように言い残す。エビス尊イサチ(垂仁天皇)は倭姫を御杖代として祀るべきところを求めて諸国を巡らせる。そして遂に伊勢の五十鈴川の上流の川と山に囲まれた閉鎖域に御霊社としての神宮を創建する。そのような巨大プロジェクトに関して技術的にもマネージメントの面でも経験のない大倭はなんと多賀のアテルヒの神に専門家集団を派遣してもらった。そしてエビス尊イサチは完成した正殿に昇殿し、アテルヒの神と共食しながら神宮に鎮まるように依頼する。

 


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