士道をわきまえぬ新政府(薩長)の輩、維新の醜さを忘れまじ

慶応4年(1968年)8月19日に江戸品川を出港した榎本武揚率いる艦隊は銚子沖で暴風雨に遭遇した。加わっていた咸臨丸は漂流し、駿河湾を横切ってマストも折れた姿で係留した。船長以下の兵は下船したが船には副長以下約30名が残っていた。事件はこれから起きる。

産経新聞(4月27日)の「元号の風景 17 明治」には以下のような信じがたい惨状が記されている。

「18日、咸臨丸が係留しているとの情報を得た新政府軍の軍艦「富士山丸」など3隻が入港し、いきなり砲撃をはじめた。副長らは白旗をあげて無抵抗の姿勢をしめしたが、新政府軍の兵士らは甲板上に乗りこむと、抜刀して斬りかかり、旧幕府軍の兵士をつぎつぎと殺害した。遺体は海に投げすてられた。静岡藩をはじめ、漁民らは仕返しをおそれ、収容しようとはしなかった」

明治維新を実現し、新政府軍となった薩長中心の者たちのなんと下賤なことか。いくら士分の者が少ないとはいえ、あまりにもひどい。たとえて言えば暴走族が天下をひっくり返したというところであろう。

敵艦とはいえ遭難した船である。マストさえ折れた操船不能な船に警告もなしにいきなり砲撃を加えるとは、軍人にあるまじき行為である。韓国のレーダー照射に文句など言えるレベルではない。しかも白旗を掲げ、降伏の意思を示している、無抵抗のものを惨殺し、さらにはその遺体を海に投げ捨てたとはまさに人非人の仕業である。これが勝てば官軍の本当の姿だ。

静岡藩も漁民も死体の収容を、明治新政府軍の仕返しを恐れてしなかった、と言うところに、明治維新政府と言うものの暴走族、暴力団並みの質の悪さが表れている。その明治をあがめる明治教の馬鹿先生もいるが…

その遺体を収容し墓を作り供養したのが清水の次郎長である。産経新聞の「元号の風景」はやくざの親分の行動を称え、紙面を大きくとって記述するが、そうすればするほど際立つのは維新側の野蛮さと品格のなさである。本当に書きたかったのはその点だったのではないか。

 


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